アルジャーノンに花束を
『アルジャーノンに花束を』を今更ながら読み終わった。
名作であるという話は聞いていたが、これは不朽の名作だ。本当に素晴らしかった。
内容に入る前に、この本の日本語翻訳には舌を巻いた。
主人公のチャーリーには、作中である変化が起こるが、それを日本語の変化で表現する。
平仮名・カタカナ・漢字を有する日本語がこんなにも感情豊かな表現なのかと驚嘆した。
以下、ネタバレを含むので注意。
1.利口になりたいという願いと、幸不幸の無関係
チャーリーは、「りこうになりたい」という。「りこうになれば、みんなに好かれるから」だと。
そして彼の願いが叶えられる。彼は利口になった。誰も適わないほどの大天才に。
彼はその知能によって、知る。かつて自分がどんな目にあっていたのかを。
知らなければ幸せだったことを、すべて知ってしまうことになる。
そう、「知らなければ幸せ」なのだ。
私は常々思う。今の世の中は極端に、知らなくて済むようにできている、と。
冷蔵庫も、テレビも、電子レンジも、その仕組みを正しく知る「必要がない」。
スーパーで並んでいる肉が、どのような過程を経てそこにあるのかを知る「必要がない」。
だが、それでいいのだろうか。
知らないまま、何もわからないまま、ただ流れにまかせて漂うだけでいいのだろうか。
私は、知るべきだと思っている。自分の目で見て、知ったうえで考えるべきだと思っている。
そうして考えることで、自身の行動を、人生を本当の意味で決めることができる。
残念なことに、それで幸せかどうかは、チャーリーが示すようにまったく無関係なのだが。
2.最後の1文の解釈
最後の1文。ここで引用することは控えるが、素敵な締めだった。
この1文に対して、様々な解釈があった。
そのなかで1番多かったのが、「チャーリーは他者を思いやる心を取り戻した」という内容だった。
しかし、正直なところ、私はまったく異なるものを最終文から受け取った。
他者を思いやる心、であればそこは「アルジャーノン」ではなくて良いと思うのだ。
あそこは「アルジャーノン」でなければならない。何故か。
この本の1つの主題として「存在」がある。
チャーリーは言う。「僕は賢くなる前から人間だった。ちゃんとそこにいたのだ。」と。
そう、チャーリーはいた。
最後にはもう「賢くなったチャーリー」はいない。でも、確かに彼はいたのだ。
消えてしまったから、いなかったことにはならない。確かに、いたのだ。
だから、花束を供えてやる。
そこにもう彼はいない。でも、彼はいたのだ。
「アルジャーノンに花束を」送るということは、「賢くなったチャーリーに花束」を送ることでもある。
「アルジャーノン」は「賢くなったチャーリー」なのだ。だからこそ、「アルジャーノン・ゴードン効果」は2人の連名なのだ。
最後の1文は、「利口になりたかったチャーリーも、賢くなったチャーリーもどちらもちゃんと存在していた」ことを示す1文だと思う。
我々は死者に対して、花を添える。
いつか我々も、花を添えられる側になる。
だが、存在していたという事実は消えない。確かに今、ここに存在している。
存在していられる短い間くらい、何かのために懸命でいたいものだ。