茨木のり子さんの詩
詩なんて、自分には高尚すぎて、よくわからないと思っていた。
でも、そう、それは僕が高校生の頃だった。
茨木のり子さんという詩人のうたに出会った。
どうして出会ったのかはもう覚えていない。
初めて出会った詩は「自分の感受性くらい」という詩。
頭をぶん殴られたかのような衝撃を受けた。
だから最後は、卒業式の日は、「自分の感受性くらい」を送ると決めている。
卒業式の日にはふさわしくないかもしれない。
でもそれが僕にとっての最大限の祝福なのだ。
ところで最近、心に何度も浮かんでくる茨木のり子さんの詩がある。
「さくら」だ。
さくら 茨木のり子
今年も生きて
さくらを見ています
ひとは生涯に
何回ぐらいさくらをみるのかしら
ものごころつくのが十歳ぐらいなら
どんなに多くても七十回ぐらい
三十回 四十回のひともざら
なんという少なさだろう
もっともっと多く見るような気がするのは
祖先の視覚も
まぎれこみ重なり合い霞(かすみ)だつせいでしょう
あでやかとも妖しとも不気味とも
捉えかねる花のいろ
さくらふぶきの下を ふららと歩けば
一瞬
名僧のごとくにわかるのです
死こそ常態
生はいとしき蜃気楼と
「死こそ常態、生はいとしき蜃気楼」
すさまじい言葉だと改めて思う。
そして、おそらくその通りなのだと思う。
「生を得ていない永い時間」と比べたら、「生」とは、
まるで幻のような「蜃気楼」なのかもしれない。
では、せめて蜃気楼の中では、自由でいたいと思わないだろうか。
一瞬の幻に過ぎないのならば、せめて好きに生きていたいと思わないだろうか。
僕は思う。
人生はあまりに短い。
蜃気楼のなかで、僕はいったい、何が出来て、何が残せるのだろうか。